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2005.12.31

ラブアンドフリー(「LOVE&FREE」世界の路上に落ちていた言葉)@高橋歩著

「LOVE&FREE(世界の路上に落ちていた言葉)」高橋歩著・サンクチュアリ出版・2001年3月
著者が結婚を機に約1年8ヶ月をかけて2人で世界中を駆けめぐった折りの記録。その地で感じたままの言葉が記されていてとても新鮮。到底まねは出来ないだろうが刺激は多い。

この著者の行動には到底及ばないが,今になって当時をふり返れば,我ながらと思える旅行はあった。

 学生時代(3回生時代),周遊券をもって丸1日半フェリーに乗って友人2人と北海道に。札幌,阿寒湖,摩周湖,旭川,層雲峡,稚内,サロマ湖,網走,釧路等を巡った。特に,軽装にて大雪山系の黒岳(1984m)に登ったことは忘れられない思い出だった。その後,札幌で友達と別れ,札幌の友人宅で数日お世話になり,その後は,函館に行き,夕日の見える青函連絡船に乗り,青森から急行で一路東京へ。狭く眠れない列車だった。東京で,従兄の家に泊まり込み,その後は,静岡県御殿場でのゼミの合宿に参加。一旦東京に戻り東京見学をしてから各駅停車で大阪に戻ってきた。それまで,家族旅行や学校の行事でしか旅行をしたことがなかった者にとって新鮮な機会だった。

 2年後,新潟のある駅で寝ていたときに蚊が多くて大変だったという話を弟から聞いて,そんな旅行も面白そうだと思い,一念発起。桜島を観に行くことに。青春18切符を買ってリュック一つをかついでの4泊5日間の各駅停車の旅。大阪を発って,新下関駅,都城駅,熊本駅で一夜を過ごす。都城駅の待合室で寝ていると,夜間2度も警察官による職務質問を受けて辟易した。熊本を発つまでには,岡山城,原爆ドーム・広島城,大分市内,宮崎市内,鹿児島,熊本城・水前寺公園等を楽しんだ。なお,目的とした桜島は近づいてきている台風の影響による雲がかかっていてその勇姿を観ることあたわず。但し,その頃鹿児島市内は降灰が凄く,なれない者にとっては息の出来ない世界だった。駅の構外に出ることは殆ど不可能だった。このような生活状態があることは行って初めて経験できたことだった。福岡に近づいたとき台風に襲われた。かなりの時間を電車内で過ごした。福岡では大濠公園等を散策。情報では,もう一つ台風が近づいているとのこと。また,先の台風と同じようなコースを辿っているとのこと。そのため,できるだけ九州を離れた方がよいとのことで,再度,電車に飛び乗り行き着いたのが山口県徳山駅。この駅では,駅のホームに泊めてもらうことかなわず。また,外の待合室に泊めてもらうことすらもかなわなかった。治安が悪いとのこと。数日前にも近くで殺人があったとのこと。待合室が閉まるまでに,トイレに消えていくお姉さん方。特攻服に変身して戻ってくる。待合室の閉まる時間となり,駅前のバス停のベンチで寝ることに。深夜,駅前のロータリーには数え切れない改造車と単車が終結し,ロータリーを旋回している。凄まじい数の暴走族のたまり場だった。ベンチの横を徒歩で何人もの暴走族のアンちゃん達が通り過ぎていく。横を通り過ぎていくときには何やら喋っていたが,一切係わらず。生きた心地がしなかった。あたりが白む頃には,殆どの車は消え去った。命拾いした。それから大阪までの記憶は殆ど無い。

 研修中の27歳。夏休みを利用してのヨーロッパ。急にウイーンが観たくなった。語学はあかんが行くしかない。夏休みが始まる2週間程度前から急遽準備。情報誌を読んで,ユーレイルパスと時刻表を買って大まかな日程をたて飛行機(日本→ロンドン→ウイーン,チューリヒ→ロンドン→日本)のチケットと1泊目のロンドンの宿のみを日本で予約(当時ウイーンへの直行がなかった)。あとの宿は現地調達。日本を発って約12時間後にヒースローに到着。事前の話では,ヒースローからホテルまでのバスが出ているとのことだったが見つからない。ホテルに電話を架けてみたが何をしゃべっているのかよくわからない。呆然とバス停あたりで時間を費やす。日暮れも近くなるにつれて後悔の念が深まる。途方に暮れている私を見かねた他のホテル行きのバスが,次ぎにまわってきたときに目的のホテルまで送ってあげるとのこと(その程度の英語はなんとか理解できた)。嬉しさと,多少の安堵感。余裕が出来てあたりを見回すと,何度かみかけていた小さなバスが気になった。やはりそのバスが目的のバスだった。中近東系の客の多い何とも言えないホテルだった。2日目からは,めぼしいB&Bを尋ねて宿泊(なお,情報誌に載っているような所は全て満室)。ロンドンで数日。ひたすら街中を歩く。国会議事堂,ロンドン塔,大英博物館等。セントマーティンインザフィールズ教会ではオルガンを楽しんだ。日本では味わったことの無いような濃厚なビールをバーで購入。あちらのビールは常温。それをテムズ川河畔でいただいた。この時の風の感触は今でも忘れられない。小さな飛行機でウイーンへ。空から観るパッチワークの世界。不思議な風景。空港にてホテルを予約。値段の安いホテルはとれず。ウイーン市街へタクシーで移動。運転手のアンちゃんが英語で話しかけてくれるが所々わかる程度。初日は,アラブ系の人が経営している怪しげなホテルだった(高かった)。宿泊に際しては,パスポートを預かるとのこと。断ることも出来ず不安な一夜を過ごす。中近東あたりでコピーが流布していないことを祈る。翌日からウエストバーンホフ(西駅)付近の安宿へ。それまでドイツ語は全く知らなかったが,ドイツ語圏に何日かいるといくつかの言葉は身に付いた。語学は,やはり現地に行くに限るのだろう。ウイーンでの約5日間かなり歩いた。リンク内は殆ど歩いた。シュテファン大聖堂,ベルデベーレ宮殿(ここでクリムトの作品に初めて遭遇し衝撃を受けた),シェーンブルン宮殿,ベートーベンハウス,自然史博物館(ここも衝撃的であった,美術館とはこういうものかと),中央墓地,ハイリゲンシュタット,いくつかのコンサート(念のためスーツと革靴も持参していた)等々。ミハエル教会のオルガンは美しくまろやかな音色だった。シュテファン大聖堂の大オルガンは凄まじい響きだった。歌劇場内を見ることが出来なかった。残念。日本人と思わしき人に声をかけて,情報をいただいた。野菜のあるところ等。マーケットで買ったシュニッツェルは旨かった。シュテファン大聖堂の地下には,当時でウイーンで音楽を勉強している方(女性)と一緒に行った。女性1人では行けないところとのこと。確かに,大量の骸骨がありとてもおっかないところだった。下の名前だけ聞いていたが,今やその名前も忘れてしまったが今頃どこでどうしているのやら。ウイーンは凄い街だった。日本でもっていた事前の印象はヨーロッパの小国。しかし,それは現在のことであり,行ってみて,極めて長らくの間ハプスブルグ家の帝国の中心地だったことが実感できた。ウイーンは,また是非とも訪れたい街。ウイーンからザルツブルグ方面に向かう列車。乗車ホームと降車ホームが異なることがわからなかった。待てども来ない列車・・・。ザルツブルグへの途上ブルックナーに縁のあるリンツにて一泊。英単語も使えない街だった。旅行中,殆どの食事は屋台で済ませていたが,ここでは「サンキュー」というと皆に笑われた。宿泊先のガストホフでは,身振りで鍵の開け閉め等を教わった。シャワーすらないところだった。なお,旅行中一度もバスタブにお目にかかることはなかった。殆どが共同のシャワー。シャワーすらないところも数カ所あった。翌日,目前に近づいてくるザルツブルグの街。ビューティフル。3日ほどを過ごす。モーツアルトの生家等を観て街中をくまなく歩く。市街地は,1日も歩けばたいていわかってしまう。大聖堂では,オルガンの練習風景を見学。日も落ち夕闇が迫る頃,門が閉じられることとなったが最後の1人となるまでへばりついていた。最後に出ようとしたとき,門番の方が,一旦門は閉めるが最後まで聴いていなさいとの身振り。ありがたい。席に戻り響きを堪能。オルガン練習が終わると電気が消されて奏者はいずこかへと。残された巨大な空間は,無数のロウソクの明かりと私の靴音のみ。しばらく,幽玄の世界を1人で味わう。ロウソクにゆらめく巨大な空間・静寂。十分に満喫した後に,いずこへか消えていた門番を捜し出して,鍵を開けてもらう。門番に御礼とは思ったが受け取らない。ドームへ寄付してほしい旨を示すとようやく受け取っていただけた。その気持ちも嬉しかった。ザルツブルグ音楽祭が開催されている頃だったがそれほどのお金もなく演奏会へ行く機会はなかったが,大聖堂の前に巨大なスピーカーが出されショルティ=VPOによるベートーベンの第9が流された。途中雨の振る中,寒さに凍えながらも聴きとおした。別の日には足を伸ばして湖を越え山岳列車に乗り山上へも行ったが今となってはどこだったのか名前すら思い出せない。オーストリアを後にしてドイツへ。ノイシュバンシュタイン城(フッセン駅との往復かなり歩いた記憶がある),ミュンヘン(ビールは美味しかった・第2次大戦後に再建された街であることを知りその執念に驚かされた),フライブルグ(留学中の知人に会うため),ケルン大聖堂(よくこんなものが作れたものだと思います),ボンのベートーベンの生家等を巡ってスイスのルツェルンに。光が映える美しい街,しかし物価は高かった。チューリヒの空港からロンドンのヒースローに向かい,そして日本へ。18日間だったが,今でも思い出深い旅だった。ドイツ語圏は大きい人が多く,小柄な私などは子供同然で,ドアを開けているとサンキューボーイ等と言われたこともあった。また,詐欺師とゲームをした(しばらくはお手並みを拝見し,大金を巻き上げられる前に退散)。夏のヨーロッパは花の街。至る所で美しい花を見ることが出来た。日本とはかなり情景が異なる。日本では古都でも昔の建て間のはわずかであるが,ヨーロッパは街その物が昔ながらの威容を今に留めている。文化・価値観の相違を思う。ただし,無理矢理の変化を起こしながらも新しいものに邁進する日本の活力の一端をも垣間見ることはでき得た。他にも,思い出せばきりがない。語学が出来ず,勝手もわからない場所に行くことには不安があったが,当時は独身時代。何かあっても迷惑をかける範囲は限られているという思いもあり,エイヤ!の行動ではあったのだが。
 いくつかの行動を通して,思い切ってやれば何とかなるものだとの考え深まった。

 結婚して子供が出来て以後は,さすがにこの種の無謀なことが出来なくなった。それはそれで良いと思わなければならないのだろうが。
 でも,心に正直な何らかの冒険は楽しみたい。

2005年の最後にあたり,思い出と自戒と将来への更なる希望をもって。

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