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2007.09.24

議論を横から見て。

他者の発言内容を理解しているか
他者を説得させるべく発言しようとしているか
端から観ていると結構見えてくる。
複数の評価者間において多少に違いはあれどもその評価に大きなぶれはない。

議論とは,意見を闘わせること?
闘わせるということを,自分の思っている意見をただ一方的に撒くだけだと誤解している向きもあるように思える。
しかし,単に,自分の意見を述べるだけでは不足だろう。
闘わすというからには,相手及び他者が納得する自分の論拠を示し,相手及び他者が納得する相手意見の論破することにあろう。
そうでなければ闘いには勝てない。

抽象的な価値観等を持ち出してそれに終始しても,よほどの場合以外には,人を説得させることは難しい。

自殺を図ろうとしている人に対して,「人生はすばらしい!だから自殺を思いとどまりなさい。」というだけでは,翻意させることは難しいのではないだろうか。
宗教家として,信者を獲得するために,「この教えは素晴らしい。」とだけ言ってもほとんど成果を上げないだろう。
自らが勧誘されて信者になっても良いと思えるのはどのような場合なのだろうか。その教えのすばらしさを具体的になるほどと感得できる場合でなければならないだろうし,信心のないことや他の教を信じることの危険性を指摘されてそれを具体的なものとして感じ取る場合だろう。
そんなことはちょいと頭を働かせればわかること。

自らの意見(価値観やスタンス)を述べるということは議論の前提として必要なこと。
しかしそれだけに終始しても,それ以上にはならないばかりか,特に時間の限られた場合には,より意見の魅力を減退することになるものと思える。
議論をしなければならない場においてすら,そんなものが多かったように思えたのは残念だった。
議論の中でその価値観がいかにすばらしいかをどのように具体的に明らかにしていくのか。或いは,相手の価値観がどれほど根拠のないものであるかを具体的に明らかにしておくことは絶対に必要であろう。
では,「具体的にとは?」
それは,各人の考えるべきこととしておこう。

前もってどこかで何らかの指導を受けてくるのか。
あるいは,最初に発言した人に強く影響を受けるのか。
そのことはよくわからない。
でも,何で?と気になることが共通の事象としていくつか認められる(発言の態様等にみられる共通性)。
共通して認められるということは,何らかの影響を感じるとも言える。仮に,前もって野誰かの指導に基づいてというのならば,その者は趣旨を理解していない或いはディスカッションの能力がそもそも欠けているのかも知れない。

しかし,日本では議論をするという土俵がそもそもない(というより,必要性がない)。以心伝心,沈黙は美徳,雉も鳴かずば打たれまい,という言葉等すらもある。
そのような社会基盤や社会経験しかない中で,急遽,議論を行わなければならないと言われても,なかなか困難なことではある。
そのため,誰かの指導を俄に受けたくなる気持ちもよくわかる。
その指導を行う者に議論の素養がなく且つ誤った指示をしていたとすれば・・・・・・
指導を仰ぐ者を誤っていないか及び指導内容が正しい者であるかを自分なりに評価する必要がある。困難ではあっても。

この記事を書きながら,
途中,諏訪内晶子さんの「ヴァイオリンと翔る」を久しぶりに読んでいた。
文中,『生活習慣や価値判断の物差し自体に違いのある多種多様な諸民族を抱えたアメリカでは「言葉」が唯一の意志疎通の手段であり,相手方の考え方を確認する手立てでもある』,『「言葉」で説明するためには,その前に正確な理解が必要である。日本に居たときにはなんとなくわかったようなつもりだった事柄でも,本当は何もわかっていなかったのだという思いをさせられた経験が,随分とあった。」との指摘があった。
よく知られていることだがアメリカでは法や裁判が重視され訴訟国家とすら言われる。これも,生活習慣や価値判断を交通整理できる方法が「法や裁判」であることに基づく。
他民族あるいは多様な価値観を国内に抱えていたという意味で言うならば,ローマ帝国はアメリカの比でなかったであろう。「ローマ人の物語」には,その統治を可能ならしめたのは公平な「法律」の存在及び執行,そしてそれを確保する「裁判」の制度であったことが示されている(ローマ帝国は強大な軍事国家として名をはせたが,その軍事力は辺境部に集中していてその広大な帝国内には軍隊はほとんど存在せず,それでも多種多様な価値観を有する帝国内部の諸民族等の反乱等はほとんどなかったようである)。
そのため,法の内容を理解し且つそれをより有効に活かすための弁論術等が重視されたようだ。当然,議論を有効になし得る能力が必須である。

日本は既に述べたように,どちらかというと同質化された国であったが,最近は,内在していた価値観が表在化し,あるいは,外来の価値観が従来にも増して流入してきている時代となっている。
そんな時代ともなると,やはり相手を論破する議論が必要とされてくることになるのだろう。

そのことの良し悪しはともかくとして。

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